膝にのせた主は、相変わらずノートに何か描いては小さく笑い声を上げている。私の膝に座るといつも決まってノートに絵を描き始める主。その絵は大体がよく分からない線でしかない。
「主」
「ん?」
紫で線を引いた主が顔を上げる。茶色の目が私を見上げた。
「………何でもない」
「変ながくちゃん!」
主はけらけら笑ってノートを放り出した。床に落ちたそれを拾うために主を下ろすと、主はぱたぱたと二階に上がっていった。ノートをテーブルに置いて主を待つ。戻ってきた主は譜面を手にしていた。
「また変わったんだー」
もう一度私の膝に座った主が唇を尖らせる。主の肩越しに譜面を見ると、前よりもやや広がった音符があった。
主が足を揺らす。
「………がくちゃん、ちょっとこれ歌ってみて?BPM80くらい」
主に請われて私は歌い出した。緩やかな旋律。誰が作曲したかすぐに分かった。これは主だ。それを他の人間が少しずつ変えていって、今の旋律になった。
囁くように歌っていると、主が指を立てた。ゆらゆら、私の歌に合わせて指が動く。
「あなたの花が枯れないように」
主は呟いた。私は歌を止めた。
「タイトル。ひっくんが、つくった」
「……まるで主のようだ」
私が思ったままを口に出すと、主はきょとんとして困ったように笑った。
人の心に咲く花の歌。これが主の歌ならば、主の心は花で満たされていることになる。心に花畑を持つから、主は誰にでも、人間でなくとも愛情を注ぐ。勿論それは主の好みによるのだが、少なくとも私が知る限り、主が嫌がっている生き物はいない。
「主は優しい」
主は笑い声を上げ、私に寄り掛かった。
「そんなことないよ」
くすくすと肩を震わせる主の肩に額を押し当てる。優しいのだ、主は。私達ボーカロイドという、生きているようで死んでいるような存在にも。
主は生死の境界というものがよく分からないらしく、時折困ったように笑って話してくれる。私だけに。
主は知らないのだ。死というものを。主にとって生の対は無で、いないということは、生きていないと同じこと。分からないと主は笑った。
「がくちゃん」
主はまたノートを開いて、今度は文字を書き始めた。歌詞のようだった。譜面がノートの下に敷かれている。
「僕は、がくちゃんや皆と一緒にいられて幸せだよ」
そこで主は何かに気付いて、ノートに文字を書いた。それから得意げな、新しいことに気付いた子供のようなきらきらとした笑顔で私を見上げた。
「こう書いたら、嫌なことだね」
私は主の顔から紙に視線を移して、赤い線を見た。

死遭わせ。

「この遭わせるだとね、嫌なことにあうって意味になるんだ」
主はたった今書いたその文字をぐりぐりと執拗に塗り潰しながら呟いた。私は主の左手を握る。
「主」
「字を変えただけなのに」
主は塗り潰し終わると私に寄り掛かってきた。
「主は幸せか?」
私の問いに一瞬目を丸くした主は、すぐに小さく笑って頷いた。
「だって一人じゃないから!」
やがて歌い出した主の声を聞きながら考えた。
主の心の端にある、無垢な小さな花を枯らしてはいけない。主の心がこれ以上壊れて逝かないように。自らの手で死を呼び込まないように。
これが最後の生命線。主が体面と自我を保っていられる、最後の砦。

私の手で、全力で。