―光溢れる出口の先へ、舵 手にした方舟は漕ぎ出す
 封じ込めてく 落とし込んでく
 帰る場所など、ここにはないから―

ぱたり、と奏のまぶたが瞬いた。がくぽはそれを見下ろした。
「ねぇ、がくちゃん」
「ここにいる」
がくぽの返事に、奏は小さく頷いた。それから腰に回ったがくぽの手に自分の手を重ねた。
がくぽはされるがままになりながら、奏の歌を頭の中で反芻した。
「この間のこと、覚えてる?」
「嫌いになってもいい、だろうか?」
奏はがくぽを見上げた。ぽかんとしたような、困ったような、微妙で分かりにくい表情だった。
いつものことだが、奏は妙に表情にむらがある。思っているであろう感情と、出てくる顔が違う。だから他の人間には分からないのだろう。
がくぽは奏の額に手を当てた。熱はない。体調が悪いわけではない。現に奏はいつも通りで、がくぽの膝から降りようとはしない。
「主」
「うん、そう、そのことなの」
奏はがくぽの手をぎゅっと握った。
「がくちゃん、僕が言ったこと覚えてる?」
「私が主のことを嫌いでもいい」
「うん」
奏はそれから少し黙った。がくぽが奏の顔を覗き込むと、心なしか泣きそうに見えた。
「あのね、がくちゃん」
奏は俯いたまま続けた。
「僕、嘘ついてる」
奏の声が震えるのを、がくぽは聞き逃さなかった。
「嫌わないで。僕のこと、嫌いに、ならないで」
がくぽの手の甲に、ぽた、と奏の雫が落ちた。がくぽは慌てて奏の身体を反転させて向かい合った。
奏はぼたぼたと涙をこぼしながら、がくぽの手を握りしめていた。
「主」
「やだ、っ、ごめんねがくちゃん、嫌いにならないで、死にたくないの」
「主」
がくぽが奏の頬に手を当てても、奏は泣きやまなかった。首を振って泣く奏にどうしたらいか分からず困惑したままで、がくぽは奏の涙をぬぐい続けていた。
「しにたくないの」
この場にカイトがいたなら青ざめていたところだ。カイトは何よりも奏が死を口にすることを恐れている。がくぽは違う。最初からこうだった。今更変わるはずもない。
「主、私は」
がくぽは奏の背中をさすりながら、どう言ったらいいか分からないままに口を開いた。奏はまだだらだらと泣いたままだった。
「私は、主を嫌いにはなれない」
「うそつき」
奏は即答した。がくぽは奏を見下ろす。奏は真っ赤な目を不穏に光らせながらがくぽを見上げた。
「がくちゃん嘘つかないで。僕のこと嫌いでしょ?」
「主」
「もういい、聞きたくない」
奏はがくぽの膝から降りて、そのまま階段へ向かっていった。ぱたりぱたりと、乾いた足音が遠ざかっていく。
がくぽは一人、にぎりしめた拳を見つめて目を伏せた。
「………」
誤解、というのには少し甘すぎるような気がする。奏のそれは誤解というよりは、盲信に近い。もっともこの言葉でもふさわしくはないのだが。奏は自分の言葉を、今の状況においてはほとんど理解していないのだ。
嫌いにはなれない。これはプログラムに最初から刷り込まれている。マスターとなる人間を憎まないように。プロテクト。
ただ、それだけではない。
がくぽは立ち上がった。奏の脆いけれど絶対の信頼に答えなくてはならないからだ。


奏の部屋のドアは開いていた。奏はベッドに身体を投げ出していた。心が沈んでいる。
がくぽは声をかけずに部屋の中に入った。奏の頭がわずかに動いた。
「がーくーちゃん」
奏の声はくぐもっていた。枕かシーツに阻まれているのだろう。がくぽは奏に近寄った。
「ここ座って、僕のことのっけて」
がくぽは言われるがままに奏の隣に座り、身を起こした奏を膝の上にのせた。
「好き?」
「好きだよ、主」
奏は嬉しそうに笑った。そのままがくぽの背中に身体を預けた。
「……主?」
がくぽが奏の顔を覗き込むと、彼は目を閉じていた。
「疲れちゃった」
がくぽは奏の手を握る。奏が目を開けて、ゆっくりと息を吐いた。
「がくちゃんは僕のこと好き」
奏は震える息の下で呟く。奏の体温が、がくぽの身体に染み落ちていく。
「嘘じゃなくてよかったね。……音がするよ」
奏が歌いだした。

―あなたを沈めていく 虚の淵
 ウタカタ 揺れる―

がくぽは奏の歌に合わせて、まるで赤子をあやすように奏の膝を叩いた。
「僕、寝るね。がくちゃんここにいて。絶対ね」
がくぽは頷く代わりに、奏の髪の毛に唇をあてた。