マスターの名前は、ちゃんと知っている。
ただ、僕には呼ぶことができないだけで。
マスターは歌を歌う。きれいな声で、柔らかい顔で、おかしな歌を歌う。でも僕はそれが好きだ。
「マスター」
僕が呼ぶと、マスターは嬉しそうに笑ってこっちを向く。どうしたのカイト、って笑う。
マスターは僕の名前を呼ぶ。僕の名前は、僕だけじゃなくて皆に言えることなんだけど、これはボーカロイドとしての名称。僕、個人の名前じゃない。
僕がたくさんいるように、マスターも、たくさんいる。
僕のマスターは、マスターだけだけれど。
「ねぇマスター」
僕はマスターの肩に手をのせた。マスターは僕を見上げた。
「どうしたの、カイト」
「歌ってもいいですか」
「うん、いいよ」
マスターはそう言うと、ひょい、と立ち上がって僕を手招きした。
「カイト、ここに座って」
僕はマスターに言われたとおりに、マスターが座っていたところに腰を下ろした。
「……マスター?」
マスターが僕をじぃっと見ていた。それからにっこり笑って、僕の膝にのってきた。いつもがくぽにしているように、僕の膝に子供みたいにのってきた。
「マスター」
「カイト、歌って」
マスターはねだるように僕に言った。僕は頷いた。マスターの言うこと、僕には断れない。たとえそれが、どんなに理不尽だったとしても。
僕は口を開いて、マスターに教えてもらった歌を歌いだした。マスターの描く世界はきれいで、儚くて、溶けていく氷の世界だ。
僕が歌うと、マスターも一緒に歌いだした。楽しそうだった。
「マスター、マスター」
「カイト」
マスターは僕に寄りかかって、いつもよりずっとやさしい顔でこう言った。

「僕の名前、呼んでもいいのに」

かなわない。マスターってどうしてこんなに人の心を読んじゃうんだろう。ちょっとずるい。
僕はマスターの心、ちょっとだけしかわからないのに。
「だめですよ、マスター」
僕はマスターの頭に顎をこつんとのせた。
「マスターはマスターなんですよ」
名前を呼ぶ。そんなことは僕がすることじゃない。僕がするのは、してもいいのは、抱きしめる、一緒に寝る、そのほか色々。名前を呼ぶことだけは、できないようになっている。
「だから、マスター」
僕の声にマスターは不思議そうな顔をした。
「マスターは、みんなにずーっと、愛されてくださいね」
ぎゅう、と抱きしめながら呟いたら、マスターは僕の頬に頬ずりして、うんっ、って頷いた。



(僕がいちばん、愛しますから。奏を、いっぱいいっぱい、愛しますから)