玄関が開く音がしたから顔を出したら、ばたばたっ、とマスターが横を通り過ぎて行った。僕ははっとしてマスターが走りさった方を見て、それから玄関に投げられている鞄を取って靴を揃えた。
洗面所から咳き込む音と水の音。リビングにいたリンやレンもぽかんとした顔になっていた。
「ねぇ、カイト兄さん。マスター大丈夫だよね?」
「大丈夫だよ」
不安そうな顔をするリンに、僕は笑うことしかできなかった。

「っか、あ、うぅ……!」
胃が、自分の意思とは関係なく動いて止まらない。もう何も入っていないのに、まだ苦しみから解放されない。奏はみっともなく泣きながら呻いた。
「んで、なんで吐いちゃうの……っ!」
今日は何もなかったはずだ。嫌なことも、無理やり笑うようなことも。何も。いつも通りに笑って、いつも通りに友達以外の人のことは意識しないで、それなのに。
家に帰り着いた途端、ひどい吐き気に見舞われた。
思わず勢いよくここに来たが、みんなに余計な心配をかけてしまっただろうか。
「……は、あ」
みぞおちがずきずきする。奏は口をすすぐと、そのまま崩れるように座り込んだ。
「……マスター?」
カイトの声がした。奏はそちらを見た。
「大丈夫、ですか」
大丈夫なわけがない。青白い顔で生気のないマスターの顔を見ながら僕は思った。
かわいそうだ。今日何かあったのだろうか。あったのかもしれないけれど、きっとマスターは教えてくれない。
マスターの唇が動いたけれど、喉が動いていないから声は出なかった。
「立てますか?」
マスターは黙ったまま首を振った。僕は頷いてマスターの身体を抱え上げた。
やっぱりマスターは軽かった。
「……僕、疲れた」
「ちょっと休んでください」
そう言いながらリビングに入ると、リンが駆け寄ってきた。
「マスター、だ、大丈夫?」
心配そうなリンにマスターは辛うじて笑って見せて、ありがとう、と言った。
リンはそれでほっとした顔になって、何か飲む?って聞いた。マスターは首を振って、ちょっと寝たいから、起きたらねって言った。マスターはあんなに苦しそうだったのに笑っていた。安心した。
「おやすみ、マスター」
レンがそう言って笑った。マスターは頷いた。
僕はマスターを抱えて階段を上って、マスターの部屋に入ってベッドにマスターを寝かせた。
マスターの額に手を当てる。熱はない。
「何かあったらすぐ呼んで下さいね」
マスターは小さく笑った。
「じゃあ、カイト」
マスターが僕の手を握った。
「ここにいて」
「はい」
僕はマスターの手を握り返して、ベッドの横に座った。
「おやすみなさい」
マスターの額にちゅっと唇を落として瞼に手を置くと、マスターはくすくす笑った。
そのまま眠ったマスターの顔を見つめて、僕は僅かに震える息を吐いた
「ちゃんと、ここにいますから」