風が吹き抜けていく。音を立てずにただ通り過ぎていく。マスターと僕の間を過ぎて物言わぬ空気に変わる。
クーラーが吐き出す風が僕の頭上から吹き下ろして、僕の膝にいるマスターの背中を撫でて過ぎる。
「寒くないですか、マスター」
「全然」
いつもより随分はっきりした声だった。僕は内心胸を撫で下ろす。今日は機嫌が良さそうだった。
僕の膝に座ったマスターは学校の宿題をしている。明らかに文字が書きにくいしやりにくいと思うのにマスターは降りようとしない。
僕はそれを見ながらぼんやりと考える。
マスターがこのまま大人になったとして、それでマスターはどうなるのだろう。今だってこんな風になっているマスターがちゃんと生きていけるのだろうか。
響さんはそのことを故意に考えないようにしている。考えると僕と同じ考えに至るからだ。
「マスター、将来のこと何か考えていますか?」
「どうして?」
ノートに文字を書いていたマスターの手が止まった。振り返らない。僕はマスターがどんな顔をしているか分からなかった。マスターの声は怒っているようにも悲しんでいるようにも、何も思っていないようにも感じた。
僕はマスターの心の中を察することが出来なかった。人の心は0と1で全てが片付くわけではないので。
マスターは振り返らない。声だけが届く。
「まだ何も考えてないけど、でも兄さんに迷惑はかけないつもりだよ」
「そうですか」
響さんに迷惑をかけないというのがどういうことなのかあまり分からなかった。僕はどうしてもマスターの未来に光を見いだせなかった。本当に生きていてくれるのかとか、ここにいてくれるのかとか。
僕は曖昧な返事を返すことに慣れてしまっていたので、マスターがどう思ってその言葉を選んで喋っていたのかということを全てなかったことにしてしまいたかった。僕はマスターのことを疑い過ぎる。
疑うのは悪いことなんだと分かっているしプログラムされている。だけどマスターと一緒に生きている間にどうしても疑わざるを得なくなってしまった。
「ねぇマスター」
僕は問わずにいられなかった。

「死んだりしないでくださいね」

マスターが笑った。
「それ、兄さんに一番迷惑がかかることだよ」
「……そうですよね」
僕は苦笑した。マスターはまたノートに文字を書き始めた。
許してくれない。振り返らないということは、マスターは僕をなだめたりしない。
振り返って笑って、おかしいね、と言う気がない。
悲しいと思うことは間違っている。僕はそういうことを承知でマスターに死なないでと言ったのだから。
二回も三回も言わなくてもマスターだって分かる。僕が初めてここに来たとき中学生だったマスターだってもう高校生だ。
それでも僕はマスターに言い続けている。
「僕、マスターのことが、本当に」
「カイト」
ぴしゃりとマスターが僕の名前を呼んだ。僕は反射的に背筋を伸ばす。
「もう分かってるよ。大丈夫だって。大丈夫」
何回か大丈夫と繰り返してマスターは振り返った。笑顔だった。
「じゃあ、僕カイトと約束するね」
マスターはそう言うと僕の頭を撫でた。
「僕は勝手に死なないから。これでいい?」
「……ごめんなさい」
「謝るの?カイト、悪いことした?」
してませんとは言えなかった。僕がしたことがマスターにとって悪いことでないと言い切れない。
無言になる僕にマスターは少しだけ困った顔をした。多分僕の心境を察そうとしているのだ。
やがてマスターは僕の肩をぽんぽんと叩くと宿題に戻った。
優しくしないでほしいと思ったことはマスターには言えない。
マスターが僕に優しいのを知っていて、僕は言い続けていたからだ。
「それでも僕は、マスターのこと大好きなんです」