マスターが風邪をひいてしまって、ベッドの中でさっきからぐずぐずに泣いている。
あんまり泣くので響さんに電話したら、奏はいつもそうだよ、そばにいてあげてと言われた。
だから僕はさっきからマスターのベッドの前に座っていた。マスターはぼろぼろになった赤い顔。
可愛くてしょうがないけれど本当に辛そうだった。さっきちゃんとご飯を食べたので、それほどひどくないのかもしれない。
耳を痩せた手でしっかり塞いで泣いているマスター。多分ずっと泣いているから熱も下がらないし水分が失われるんだろう。
「マスター、あんまり泣くと干からびます」
「大丈夫」
僕は驚いた。明確な言葉を紡いだことにも、大丈夫という言葉にも。
「何が大丈夫なんですか」
「いつものことだから」
マスターの泣き声は崩れているのに普通の声は平然としていて、僕は少し寒気がした。
マスターの額に手を当てるとマスターはますます泣き出した。熱が上がっている。僕はマスターの髪を撫でた。
「……大丈夫ですか?」
「ん」
マスターは耳から手を離して僕の手を掴んだ。僕はマスターの頬に手を添えた。熱で熱い上に、薄く冷たい水がある。
泣き止んだマスターが定まらない視線で僕を見上げた。僕の手は人並みの体温を持っているけれど、今のマスターにとっては冷たいのだろう。
マスターが視線を僕の背後に向けた。僕はベッドサイドからスポーツドリンクを持ち上げてマスターに渡した。
「どうぞ。ゆっくりですよ」
マスターは頭を持ち上げて少しだけ飲んだ。口の端から零れた液体が僕の手の甲に落ちた。
本当は氷枕とかで冷やした方が早く熱が下がるけれど、家には生憎そういう物が無かった。響さんが学校帰りに買ってきてくれると言っていた。
ベッドサイドに置かれた帯人の目玉がマスターをじっと見ていた。僕はその前にスポーツドリンクを戻した。
マスターは目を閉じた。眠ろうとしているのを見て僕は部屋を出ようとしたけれどマスターが手を掴んできたので止めた。
「一人は嫌い」
僕は頷いた。マスターの手をしっかり握った。熱い手だった。
「知ってます」
呟いて、僕はマスターの寝顔を見つめることにした。あどけない顔だ。初めて一緒に眠ったときと変わらなかった。
こうしていれば無害で可愛い人なのにと思わずため息をついた。起きていると癇癪を起したり泣いたり笑ったりとにかく忙しい。
そういうところも可愛いと僕は思っているけれど、確かレンは呆れていたはずだ。
結局僕たちは皆マスターが好きだから、多分この人が何をしていても割と受け入れるんだろうと思う。


響さんは夕方にやってきた。マスターは疲れ切った顔をして横になっていた。響さんがマスターの額に手を当てる。
「少しは下がった?」
「ええ、少しだけですけど」
あんまりにも泣くので、と付け加えると響さんは困ったように笑った。
「奏、起きられる?」
「起きないとだめ?」
「だめ」
響さんはきっぱりと言った。マスターは渋々起き上がった。響さんが差し出した薬を口に含む。
「それ飲んだらもう一回寝ていいから。でも泣くのはもうだめだよ」
ごくりとマスターの喉が鳴って、それと同時にマスターはベッドに倒れ込んだ。響さんが優しく布団をかけて僕に向かって笑う。
「ありがとうカイト、多分明日には熱も下がると思うから心配しないでね」
「はい」
僕は響さんに向かって頭を下げた。
「ありがとうございます、響さん」
「……奏は俺の弟だからね」
含みのある言い方だった。訝しげな顔をする僕に響さんは肩を竦めて呟いた。
「カイトは俺のこと家族だと思ってないのかな?」
「そんなことないです」
響さんはマスターにとっての家族なので、もちろん僕にとっても家族だった。僕の言葉に響さんは少し悲しそうな顔になった。
「それじゃあ、俺に頭を下げるのは止めてくれないかな」
僕の口からあっと声が漏れた。確かにおかしかった。
「ごめんなさい」
響さんは首を振った。それからマスターの髪をゆっくり撫でた。僕の胸がじりじりと痛んだ。
響さんはマスターのお兄さんなんだから当然の行為だと言い聞かせて僕は唇を噛んだ。
「カイト」
呼ばれて僕は顔を上げた。響さんが柔らかい笑顔を浮かべていた。
「カイトが一番奏のことを思っていると思うよ」
「そう、ですか」
響さんは黙って頷いて、それから僕の手を取った。マスターと同じようにひんやりとした手だった。
「だからそんな顔をしないでほしい。奏が見たら悲しむ……あ、いや多分面白がるね」
僕はマスターの安らかな寝顔を見て、響さんと二人で笑い合った。