見ないで、と初めて言われたのはいつだったのか、もう覚えていない。苦しそうに胃の中を吐き戻している姿は同情するにはあんまりに残酷だった。
「や、だ……見ない、で……見ないでレン!」
背中を向けているマスターは苦しそうで、背中を摩ってあげたかったけれどマスターがそれを望んでいないのは分かり切っていたので何も出来なかった。マスターの体質は知っていたのに、いざ目の前にすると何も出来なくなってしまう自分が疎ましかった。マスター。
一際大きな声がして、マスターが前屈みになる。ぼたぼたっ、と音がした。荒い息をついて、マスターは呟いた。
「レン、あのね、ティッシュ」
「………ん」
俺はぱたぱたと居間に行き、ティッシュの箱を掴み上げた。ついでにもう何箱か引っ張り出して、合わせて持っていく。マスターはまず口元を拭ってから、見ないで、ともう一度言った。俺は大人しく居間に戻った。背後のマスターの深呼吸が聞こえた。
居間に戻って来たマスターからは、微かに消毒液の匂いがした。青いマスターの顔。
「ありがとう、レン」
疲れた顔で笑うマスターに、俺は曖昧な返事しか返せなかった。ありがとう、なんて。見ないでと懸命に言うマスターの震える背を、ずっと見つめていた俺に。
「レン」
マスターが俺の名前を呼んで、ぎゅ、と抱きついてきた。かたかた肩が震えているの、見ないふりをした方がいいんだろうけど。
「………大丈夫だって、マスター。俺、マスターを嫌いになんてならないから」
マスターは小さく頷いた。分かってる、と小さい声。でもマスター、分かってるならそんな泣きそうな声しないでよ。
「大丈夫だって」
そう言いながらぽんぽんと叩いたマスターの肩は、思ったよりずっと薄かった。