ピアノの音が耳の中で不協和音になっている。ぐわんぐわんと流れている。
俺はこの曲を知っていた。そして、この曲は俺にとって苦しみだった。

―――あ、あああ、ああ。

どうやって鍵盤を叩けば綺麗な音になるんだっけ。俺のピアノってこんなにうるさいっけ。

―――だめだ。

もう弾けない。



「……」
全身にびっしょりと汗をかいていた。今は真冬なのに。
俺は身体を起こした。隣のベッドから寝息が聞こえた。
ここが自分のマンションではないと分かった俺は、黙って立ち上がって部屋を出た。
既に夜は明けかけている。奏は起きない。奏が起きなければカイト達も起きないだろう。
階段を下り、防音された部屋に入る。中央に置かれた黒いピアノ。無意識に拳を握りしめていた。
高校に入るのと同時に止めたピアノ。カイトが綺麗にして調律もしているから表面はぴかぴかで、俺しか弾かないようには見えなかった。
俺はがたりと椅子を引き、小さく息を吐いた。夢の中の音が頭に流れている。
目を閉じる。思い出すのは弾いたときの絶望感。

俺は、この曲を演奏中に倒れた。

それが直接の原因ではなかったが、結局俺はピアノを止めた。弾くのが怖かった。
最近ようやく少しずつ、奏に乞われて弾けるようになってきたところだった。
目を閉じたまま鍵盤に指を置く。ずっと弾いてきた曲だから、数年経ったところで簡単に忘れるはずはない。
あのときの音と、今の音が混ざり合って耳で不気味に鳴り響いた。俺は無心になって弾き続けた。
「……」
呼吸が荒くなり始めた。たくさんの視線が脳内から俺を見ている。上手に弾けるはず、弾けて当然、そういう目。
ピアノから指を離そうとした瞬間、背中にかかった重みで俺は硬直した。荒れ狂っていた鍵盤が止んだ。
「おはよう」
ぽん、と奏が鍵盤を叩いた。俺はふっと肩の力を抜いた。
「おはよう奏」
「僕は兄さんのピアノ好きだから、上手じゃなくてもいいの」
ぼそりと奏が言って俺にもたれてきた。奏は俺ほどピアノを弾けない。止めるのも俺より早かった。
それでも、俺は奏のピアノが好きだった。期待されない音が心地よかった。
「奏」
「はぁい」
「弾かないか」
笑った気配がした。俺は椅子を半分空ける。奏はパジャマのままだった。
奏の左手が鍵盤の上にのる。骨の浮いた手だった。俺の右手が隣に並んだ。
奏は力が弱くて、強い音を出せない。必然的に俺の音の方が大きくなってしまう。
それでも奏はとても楽しそうだった。奏のピアノは相変わらず弱くて儚かった。
「兄さん、きらきら」
「奏の方がきらきらしてるよ。俺は全然」
たん、と奏の指が黒鍵を跳ねた。
「たのしい!」
俺は奏の頭を撫でた。ちょうど曲も終わって奏はご機嫌だった。俺は奏がこういう風にピアノを弾くのが本当に好きだった。
「奏、ありがとう」
「うん?兄さんもありがと」
奏がそう言ったのと同時に部屋の扉が開いた。
「もー、マスターも響さんもこんなところに!」
「おはようカイト」
俺の言葉にカイトは律義におはようございますと言ってから眦を吊り上げた。
「そうじゃなくって!マスター、寒いんですからパジャマ1枚は駄目です!」
「ああ、そっか……奏、これ着て」
俺は自分が羽織っていた上着を奏に着せた。奏は妙に嬉しそうにそれを着た。カイトが余った袖をまくってやっている。
「ピアノ、やっぱり上手です」
「ありがとう」
俺の肩に奏がごつんと頭をぶつけてきた。
「ん?」
見下ろした先の奏は満面の笑みだった。
「兄さん大好き」
「ありがとう、奏」